御岳山南天の劇的日常

地球での毎日。

外出たくない

ガードレール錆びてる。

今日寒かった。寒暖差つらいです。

 

 

りえちゃんに度々「南天ちゃんは博愛主義。嫉妬とかもしなさそう」と言われたことがあるんだけど、多分結構焼きもち焼き(焼き餅というのが嫉妬という意味なの、どういう経緯があるの?)だしものすごく偏っている気がします。初見の人は、ほぼ全員「嫌い」からスタートするし、好きな人があんまり好きじゃない人と談笑していたりすると「なんで笑っている」と思ったりもします。

人見知りを直したいのですが、多分本当に根っからの人見知りなので、無理して頑張ると反動で余計辛くなります。正直色んな人と沢山仲良くしてどんどん知り合いを増やしたい、色んな人と関わりたい、みたいな気持ちは一切無い。

他者とどう関わればよいのか、何を話せば良いのかといったこともわからないし、慣れてない人から何か話を振られても、何も言葉が浮かびません。 

 

以前出版社の開催していた漫画の勉強会?のようなもので、みんなでちばてつや先生の話を聞くというイベントに参加させてもらったことがあって、ちば先生のお話は為になったし行ってよかったと思ったのですが、自由時間という名の交流タイムが本当に困りました。

横に座った人が優しい人だったので、バスの中でも色々話しかけてくれたのですが、あまりその人を拘束しても悪いしその人は社交的で他の人にもどんどん話に行けるタイプだったので交流時間中はこっちからはそんなに話しかけないようにしていたのですが、そしたら話せる人が0人になってしまってずっと座ってました。

結局他の受講生の人が話しかけてくれて、その人とちょっと話したりしてたのですが、こういう「自由な交流タイム」というのが異様に苦手です。

誰に話しかけたら良いのかも何を話せば良いのかも分からないです。

結局優しい人に頼り切りになっちゃうんですよね。

 

この前母親の前で号泣して「みんなわしのことなんてダメ人間の馬鹿だと思ってる」みたいなことを喚き散らし、「でも南天ちゃんにはいいお友達沢山いるでしょ、みんなそんなふうに思ってないよ」と言われ、「自分なんで友達いるんじゃろ」と泣きながらも冷静に疑問に感じたのですが、ほんとになんでなんでしょうね。

性格とかそういうもの以前に、社交性が無いのでなんで友達が居るのが不思議です。

僕の友達は僕と仲良くできるという時点で優しいので、きっと誰とでも仲良くできるのかもしれません。そう考えるとちょっと寂しいですね。

今は大人なので、思うことは少なくなりましたが、昔から「自分はこの人のことが大好きだけど、多分この人には自分よりもっと仲の良い友達がいて、一番の友達ではないんだろうな」と思うことが多かったです。

それはみんなが優しくて素敵な人だからなのかもしれませんね。そりゃ他に沢山友達がいて、素敵な人たちの友達は素敵な人が多いだろうから、僕なんかよりその人達との方が仲良くなるだろうと思うんですよね。

 

でも、キチガイのようなやつらも数名いました。

あいつらはなんであんな、ものすごい勢いで他人に接することができるのか。

僕のように自他の境が深すぎてもあれですが、自他の区別がつかなすぎるのも考え物です。そういう人たちは簡単に「好き」と言ってきますが、一切信じられない言葉です。

 

 

自宅の片付けをしていたら母方の祖母からの手紙が出てきました。それで思い出した祖母から聞いた変な話を書いておきます。

 

昔、民家は通常施錠をしていなくて近所の人とかが勝手に入ってくる、というどうぶつの森みたいな状態、結構一般的なものだったと思うのですが、祖母が若い頃昼寝をしていてふと目を冷ますと、知らない男性が正座をして祖母を覗き込んでいたそうです。

結局、セールスの人だったらしいのですが、怖いですよね。その男がまた不気味で、驚く祖母になんの反応もなく「セールスのものなのですが…」と話し始めたそうです。勝手に入ってくるまではまだわかるけど、声をかけるでもなくただ見ているのは怖すぎる。

 

全然関係ないんですけど、自分がまだ本当に小さかった頃、自宅の敷地に停めてある車のフロントガラスを、変な男がめちゃくちゃに暴れて叩きまくった事件があった気がするのですが、あれは何だったのか。

子供の頃って、今よりもっと不気味なことが多かった。

 

 

バイト先で通勤で自転車を使う人は書類を提出しなければならず、それには防犯登録番号を記載する必要があるのですが、僕は自転車を盗まれ母親の自転車(防犯登録していない)に乗っているため、かける番号がないです。

それを言ったら今乗っているものを防犯登録して保険の登録もやり直すように言われました。でも購入はかなり前な上に保証書もないです。

手続き関係が本当に苦手なので、もう自転車通勤の手当とかいらないので、書類書きたくないです。考えるだけで頭が痛い。多少自分が損をすると分かっていても、精神的苦痛を考えると、やらないという選択をすることが多々あります。

 

 

展示の振込を済ませました。

これに関してもメールを送ったりATMに行くのが嫌で、まだ締め切りまであるし今度やろうと思っていたのですが、締切日を勘違いしていたので危うく参加できないところでした。

しかも展示期間も一ヶ月勘違いしていました。危ない。気づいてよかった。

 

 

生きているものが必ず持っている「命」のことを考えています。同じ物質で構成されていても、死骸には命は「無い」んですよね。ものとしては同じはずなんですけどね。

激しく損傷したり、毒物を摂取したり、病気で死んだりは、もうそのもの自体が壊されているので、動かないのは分かるのですが、老衰等のパーツが全て揃っておりどこも悪くないのに死んだ状態というのが不思議です。

昔、近所のお爺さんが漏水でこたつで寝たまま亡くなって、ご遺体を見たのですが不思議な感じでした。何にでも老朽化とか、「経年により動かなくなる、崩れていく」ことってあるとは思うのですが、じゃあこのもう動かないお爺さんと生きてる自分や、葬儀に参列している動くお爺さんたちとの違いって何なのかなと思っていました。今でも分かりません。

一度死んでしまったら、もう直すことは出来ないのも不思議なことですね。

 

命がどんなものなのか、目で見てみたいとずっと思っていますが、想像すると、とても綺麗なものが浮かびます。