御岳山南天の劇的日常

地球での毎日。

生きるのに向かない

ちょっとだけ描いたけど、肩が凝りすぎてものすごく苦しいのと眠気でほぼ何もしてません。やらなきゃならないことも全く手つかずです。

 

漫画の絵はすぐ下手になってしまうのでなるべく間隔を開けず描きたいです。

漫画の絵は上手さを追求しなくても良い、そこを頑張るくらいなら話を頑張れという意見もありますが、僕は絵が自分の納得行かないものだと描き進めることもできなくなる上に話の構成に関しても一度描いてみないことにはまだ良し悪しすらわからないです。

なのでいつでも自由に描き進めることができるように、絵の鍛錬は怠らないようにしたいです。

 

この前「友達できるかナ!?」の感想を呟いてくれている人を偶然見つけて、全然自分とは関わりの無い人だったのでアクションは控えましたが、「影森は動物に好かれていていいやつっぽいけれど、木蓮寺はただのヤバい人だな」と言われていてちょっと笑いました。覚えにくい名前だろうに、人物名を書いてくれたのも嬉しかったです、ありがとう。

 

でも自分としては、どちらかといえばみんな木蓮寺に感情移入するであろうと想定して描いています。

 

因みに「木蓮寺」は埼玉県入間市の地名から取りましたが、「影森」というのも埼玉県秩父市の地名です。駅もあるんですけど、とんでもない田舎です。

影森周辺はちょっと有名な廃墟や廃線があったりしますが、それらはかなりアクセスが悪い上に本当にとんでもなく田舎で迷いそうなので、僕はまだ行けていません。

 

 

僕は高校生の頃、幻聴や幻覚が酷かったのですが、あれは何だったのでしょうか。金縛りによく合っていたのも同時期です。

今も良く「眠い」と言いますが、あの頃は今の比じゃなく常に眠く、学校で居眠りする程度なら良くあると思いますが、風呂でも床でも寝るし、自転車を漕いだり歩いているときにも意識が途切れることがあったので、体は寝ていて脳は起きている、みたいな状態を行き来していたのかもしれません。

とにかく色んな幻聴幻覚が繰り返され、思い返しても夢と現実がごちゃごちゃになっているような感じがします。

 

いくつか書き残しておきます。

 

①風呂に入っているとき、居間から沢山の叫び声が聞こえる。「人殺しが来た」と風呂桶の中で怯えていたのですが、30分経っても声がやまない。また、僕は深夜に風呂に入っていたので居間に家族が居るはずがない、「幻聴だ」と気づいた途端、声が消えました。

 

②道に生首が落ちていた。それだけです。そんな状況はありえないので、「幻覚か」と思った途端、消えました。上記もそうなのですが、「幻聴、幻覚」であることを自覚すると、消えます。

 

③路上に停まっている車の中に緑色のおじいさんとおばあさんの生首が飛んでいた。自転車でそのまま通り過ぎたので、ちょっとよくわからないのですが普通に幻覚だと思う。

 

④2階の自室に居るとき、今から父親が大声で呼んでいたので返事をして居間に行くも、誰もいなかった。このとき家にいたのは自分だけだったみたいです。

 

印象的なのはこの4つですね。

なんだか、高校生の頃ってまだまだ子供で、色々と固まってない状態で、でも大人になることや現実について考えることを強いられだす時期だと思うので、そのあたりで非常に不安定だったのかもしれないな、と思います。

この頃は、自分はまだ「大人になれば自分は自動的に普通になって、他人に恋愛感情を持つようになる」と思っていました。

結果として成人前後で色々と嫌な思いをしたこともあり、また、高校生の時点で無いものが数年で突然芽生えることも無く、「普通の大人」になることはできませんでした。今も情緒はかなり不安定だと思うのですが、とりあえず幻聴幻覚はなくなったと思います。

大人になれたということなのでしょうか。

 

 

上記のとおり、僕は「他人に恋愛感情を抱く」「他人に性的欲求を抱く」ということがよく分からず、恋愛のもつれによる犯罪や性犯罪のニュースを見聞きする度に、「なぜ、他人に迷惑をかけてまでその欲求を突き通そうと思ったのか」を考えてしまいます。

犯罪とまで行かずとも、やたら沢山の人間と性行為をしたがるような人も居ますよね。そういう人は、一体なぜそうなってしまったのでしょうか。「そうなってしまった」と書きましたが、他人に無体を働いたり無理矢理なことをするとかでなければ本人の自由だとは思います。僕はそういう人は、そんなに好きではないので関わりたくはないですが、それが悪いことだとも良いことだとも思わないです。また、僕も別にもの凄い聖人というわけでもないし、人の行いについてこれは良くないとかこれは罪だとか、そういうことを言うつもりも無いです。

ただ、根本的に理解が出来ないのでそういったことで身を持ち崩したり、罪を犯したり、他人や、更には自分にまでデメリットが生じるのがわかっていても歯止めが効かないような人が居るということが単純に不思議で、社会的な立場の強い人が性犯罪を犯しただとか、恋愛のもつれで人を殺しただとかいうニュースを見る度に、「なぜそうなったのか」と考えています。

 

僕は香川照之が好きで、香川照之の番組やドラマをよく見たり、雑誌を買ったりもしていたのですが、僕が香川照之なら女性に無体を働くようなことは、例えそういった欲求があったとしても多分慎むと思います。

自分が一番やりたいこと、心血を注いできたことを壊すことになったとしても、抗えないものがあるんですかね。

まあ、でも、それは本人になってみないとわからない。今僕が「自分ならそんなことしない」と思えるのは僕だからです。人からしたら、僕の言動に対しても「自分ならこんなことしないな」と思われていることは沢山あると思うし、犯罪行為等の大きな話じゃなく日常の小さなことたけど、自分でも良くないと分かっていてもどうしても直せないところは沢山あります。

きっと本人たちも言葉で説明できるようなことではないのだろうな。人間の心はそういうところが多いものなんだ。

 

 

容姿についてはどうしても「限界」があるので、ならば精神はせめてと思いますが、容姿以上にどうにもならないものなのかもしれません。目に見えないものなのでどうにかできると思ってしまいますが、精神は整形もできません。

「美しさ」や「清澄さ」というものに強いあこがれがあるのですが、偶に自分の存在が、心身ともに非常に汚濁したものに思え、それに自分が耐えられず、非常に悲しくなります。

生きる年数が長いほど自分が汚濁していく気がするので、心身ともにこの世から消えることが自分にとって唯一の理想の実現であり達成なのかもしれません。

しかしそれをやってしまうと、もう絵はかけなくなってしまうので、自己の醜汚は耐え忍ばなければなりませんね。