御岳山南天の劇的日常

地球での毎日。

三賀日終わり。寿司。

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三賀日終わりましたね。
僕は三賀日出勤だったので、明日は休みです。

今日はバイトのあとに高校のときからの友達と3人で寿司食べてきた。
コロナ禍に入る前くらいの時期に、「寿司食べよう」と集まったものの、あまりに待ち時間が長くて、僕が「もういやだ。お腹すいたから他のとこ行こう」と移動させてしまったので、そのリベンジで再度寿司屋に行った。
空腹状態からいきなり爆食したもんで、眠気が尋常じゃない。

寿司も美味しかったけどなんか大学芋とか豆腐のサラダとかが美味くて、大学芋は二皿も食べてしまった。
友達の一人は、来る前にホットドッグを食べる愚行に走ったために、全然食べられず悔しがり、口が三角になっていた。

今日会って友達たちは、高校で知り合って専門まで同じところに行ったので付き合いが長い。高校なんてもう入ったのは13年前なので、人生の半分近くを友達でいてくれているということになる。
僕の高校はクラス替えがなかったので、毎日のように顔を合わせていたのだけど、今やこうしてよほど仲の良かった者たちとたまに会うのみ。コロナ禍になって同窓会などがなくなったこともあり、クラスみんなが揃うということはもう二度とないのだろうな。
僕は過去のことを色々と覚えていて、何度も記憶を反芻するので、高校の頃のことでも昨日のことのように覚えていることが沢山あるのたけど、もうかなり前のことだということが不思議だし、自分が子供だったという事実が不思議である。

反面、僕は精神年齢が低いので、今やっと高校生くらいの年齢にたどり着いたような、あのときみんなができていて自分ができなかったことがちょっとずつできるようになってきたような状態で、なんだかずっと子供時代が続いているような感じもする。

今日、友達たちと「今も大変なことはあるけど、自由にできるお金があって、欲しいものも食べたいものも頑張れば手に入る。親の許しがなければどこかへ行ったり何かを買ったりできなかったことを考えたら、昔と比べるとぎりぎり今の方が楽しいね」と話した。
みんなは大人と子供、どちらが楽しいと思うのだろう。
僕は、楽しいかどうかは別として、過ごしやすいのは明らかに今だ。
年齢が上がると、その年齢相応のレベルに何もかも追いつけず、焦りや不安が出てくるが、それはそれとして、“自由度”は遥かに増すのだ。
子供のころは、ほんの僅かな限られた環境が全てで、自分でコントロールできる部分が少ない。大人になると、ある程度環境だのなんだのを、自分の自由にできるのが良い。
周りの人間も大人なので、思春期特有の面倒事なども格段に減る。
なんとなく、学生時代の、学生の自分というものは、過ぎてみると不安定さや未熟さも含めて、「良かったな」と思ってしまうが、いざ戻れるとしたら戻るかと問われれば、僕は絶対に戻りたくない。